はるか昔、日本が円高だったころ、1回だけ下田に旅行しました。結構な高級旅館だったと思います。今検索したら、旅館名の検索候補に『幽霊』とか出てきました。
わたしが泊まったときには出てこなかったと思いますが。
さてそんな高級旅館ですが、一番の思い出はそこで食べたアワビです。よく旅館で見かける、固形燃料を使うタイプの浅い鍋がありますね。その上でアワビがうにょうにょしています。
仲居さんが火をつけてくれて、
「焼き上がったらお召し上がりください」といって去っていきました。
さてそのアワビ。下から火を燃やされ、焼死の危険性に身を左によじり右によじり、なんとかして助かろうとのたくたし続けていました。
とても食べるのがかわいそうになります。
動物愛護団体が見たらわたしが焼き殺されそう。
しかし、助けたところでどうなるのでしょうか。今更海に離してもたぶん長生きできないでしょう。自宅に持ち帰って飼育する。水槽の扱いがとても大変そうです。
どうしようと考えているうちに踊るアワビからいい匂いが立ち上りました。
バターが落とされてるので、海の美味しいものと合わさって殺人的な香りです。
ここに醤油を落としたらどうなってしまうのでしょうか。
アワビはまだ踊っています。テーブルの上には他にも刺し身とか茶碗蒸しとかあるんですが、手を付ける気になりません。アワビをみないように、そして香りだけは吸い込みながら時間が過ぎていきます。
なんて美味しそうな香りなんでしょう。
ちらっと目をやると、アワビはもう力尽きて泡を出し、「もうどうにでもして」という感じです。さっきまでかわいそうだったのに、見る目はもうおいしそうしかありません。
決然と醤油瓶を持ち、一滴たらり。
炎に煽られて立ち上る、醤油とバターとアワビの香り!
貝殻の中では、身がじゅうじゅうと泡を立てて焼き上がりつつあります。しばし待って、もういいだろうというところで小皿に取ります。
貝の身は弾力があり、箸で持ち上げるとずっしりと重い。それを持ち上げてひと口かじります。
ああ、永遠にこの味を味わい続けたい。
醤油とバターだけでも勝利確定なところに、アワビ。なんかコハク酸とかイノシン酸とか旨味成分だけで出来ているこの美味しさの塊が脳髄をぶん殴ってきます。ノックアウト。完敗です。
できるだけちびちび食べたんですが無くなってしまいました。ああアワビ。
それ以来、アワビは全く食べていません。これこそ、磯の鮑の片思い。
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